2023酷暑

この記事を書いている時期的には残暑と書くべきなのかもしれないが、この暑さを残暑と表現するのはフェイクだと思うのでタイトルはこれである。


なんだかんだ言って、去年の九月から月一くらいで何らかの文章を発表していた(していなかった月は同人誌を作成していた)。
先月はニディガとジャンバケという、およそファン層が被ってないであろうクロスオーバーSSをpixivに投稿した。ちなみにこれはジャンプラの休載イラストにより黎明くんが完全にオフの時には両目が見えることが明らかになり、超てんちゃん(あめちゃん)と逆だな、あと二人とも顔出しで配信やってるな、と思ったところから着想した作品である。
今月も何か書くつもりだった。書いた。あるウェブの、規定が緩めの、特定テーマにそって皆で一次創作を書きましょうみたいなやつに、それを投稿するつもりだった。先日書き上げて、ふと、そういえば〆切っていつだっけ、と思って規定を見たら余裕で一週間以上過ぎていた。これだから。
己の愚かさをオープンインターネットで嘆いてもしょうがないが、書き上げたブツをどうすべきかは悩みどころだ。レギューションの緩さに乗じて相当変なことをやったので、なんというか、どの媒体にも発表の場がない。可哀想だからどこかで日の目は見せてやりたいのだが。


先日ようやく「君たちはどう生きるか」を見た。
ネタバレを踏まないよう注意はしていたが、tweetdeckが死んだり、ジブリが何カットか場面写を発表したりした影響で、いくつかのネタバレを踏んでしまっていた。踏んだネタバレは「ファンタジーものである」「ポスターの鳥はオッサンになる」「そしてそのオッサンは、菅田将輝の声で喋る」の以上三点である。
その前提知識だけ持って映画を見たのだが、冒頭のシーンからはビックリするぐらいファンタジーの気配はない。騙されたかと思って不安になる。婆さんの群れがぬるぬると出てきた辺りで、あ、ファンタジーになるかも、と思って少し安心する。アオサギが出る度に気を取られる。お前はいつオッサンになるんだと画面を注視し、変容の気配が出る度に身構える。
そんなことをしていたので、なんというか、ちゃんと作品に没入できたのは中盤以降だった。やっぱりなる早で見に行けばよかったな。すでにもう一度見たくなってるし、現実問題、もう宮崎駿監督の映画が大スクリーンで見られる機会ってそんなにないかもしれないし(リバイバル上映とかはあるかもしれないが)。
作品自体の感想はといえば、過去のジブリ作品の怒涛のセルフオマージュにも面食らったが、眞人が割とクソガキだったのが良かった。石で自分を傷つけたくだりもそうだが*1、義母の見舞いついでに部屋からタバコをパクり、そのタバコで爺さんを懐柔して、武器を自作するところなんかサイコーである。そしてそれを見ていた屋敷の婆さんはその行為を咎めるでもなく、「本物の弓矢が欲しくないかい」と眞人をそそのかしてタバコをもらおうとする。一連のシーン全てがコンプライアンスの概念から二億キロくらい遠くにあり、大変良かった。やっぱ戦前ってこうでなくっちゃ。
ファンタジー世界に入ってからのあれそれに何らかのメタファーを見出だす派もいるが、自分はとりあえず地であの訳の分からなさを楽しんでいたい。でもオモコロウォッチの解釈はそれはそれでよかった。三人が要所要所で映画を全く宣伝しないことによる機会損失の大きさに思いを馳せるところが、なんというか、オモロに全振りしているように見せかけて、広告の世界に所属する人々なのだという地が透けており、何とも言えない気持ちになる。この回もだけどオモコロウォッチはたまに本質的な話になる時があって、その時は結構本気で聞き入ってしまう。一番面白いのは尿周りのニュースの話してる時だけど。これとかこれとか。


先日、『「逆張り」の研究』という本を読んだ。逆張りから生まれた逆張り太郎を自称している以上、このタイトルは見逃せなかった。そこは順張り。
とはいえ、本書の半分くらいはここ十数年のツイッターの政治的部族主義の加速っぷりを列挙しているだけで、「研究」という感じはあまりない。まあまえがきで「論文ではなくエッセイ」と断りがあるものの、ややタイトル詐欺感は否めない。ただ、残りのエッセイパートは実に面白く読めたし、共感できる部分も多かった。以下は特に良かったところの抜粋である。なお、一パート目は異様に長いが、これは途中で端折ってしまうとダメだと感じたので、そのまんま引用させてもらう。

 この耐えがたさをうまく理屈にするすべがぼくにはないので、大多数の読者にはわからないと思う。ぼくもわかってもらおうと思ってないので、以下の言葉は感性の違いなのだと聞き流してほしいが、資本主義社会から安心、尊敬、信頼される人間になる耐えがたさとは、あらゆる安心尊敬信頼がお金に換算されてしまう耐えがたさであり、働く大人の昼ごはんを紹介するテレビ番組が経営者のランチばかりを紹介する耐えがたさであり、社長の手料理を食べさせられる社員の微妙な表情が映し出される耐えがたさであり、世界的なアーティストたちが京都の料亭で会食してこれからは肉食を減らしていこうとうなずき合う耐えがたさであり、大企業の創業者が接待と称して吉野家の牛丼を食べさせることがあたかも美談として語り継がれる耐えがたさであり、この耐えがたさがわからない人間は総じてクソだがなんの屈託もなくソーシャル・ビジネスとか宣う恥知らずがご高説を垂れる耐えがたさであり、新自由主義に抵抗するためケアする配慮する勇気づけるエンパワーメントする贈与するという利他を説く大学の先生が世に送り出す学生は企業にぴったりの資本主義社会から安心信頼尊敬される人材である耐えがたさであり、毎朝決まった時間に起きて同じ時刻の通勤電車に揺られるがいつ帰れるかはわからない耐えがたさであり、住民税が払えずに給付金が支給日にサシオサエとして引き落とされる耐えがたさであり、年収が足りず保証人もおらず住処が見つからないまま退去の期日が迫る耐えがたさであり、大型トラックが行き交う道路で若い野良猫が轢き殺される耐えがたさであり、精神状態は経済状況に左右されるから患者に障害年金を取得させることが年金療法と精神科医に裏でささやかれお金でうけた傷は結局お金で癒されるしかない耐えがたさであり、このような耐えがたさから逃れることは容易ではなく毎日その耐えがたさのなか糊口をしのがねばならない耐えがたさである。

 

 

 読者を納得させる理屈が思いつかないので、わからなければ感性が違うんだと聞き流してほしいが、「盗人にも三分の理」と言うときの三分の理みたいなものにどうしてもひかれてしまう。遊び人、怠け者、ならず者、不届きもの、タダノリする奴、フリーライダー、ごまかすひと、一貫性がないひと、恩知らず、だらしないやつ、起きられないやつ、座ってられないやつ、働かないやつ、すぐ怒るやつ、すねるやつ、勉強できないひと、粗暴なやつ、モラルがないやつ、努力しないひと、反省しないひと、損得勘定のないやつ、借金を踏み倒すやつ、他人の話をまったく聞かないやつ、逃げるやつ、誠実さがないひと、でたらめをいうひと、不審者……みたいな社会から安心、尊敬、信頼されないひとにどうしてもひかれてしまう。
(中略)
 誤解しないでほしいのは、いわゆるヤクザといった「アウトロー」にはあまり興味がないのだ。日本で一番大きなヤクザの山口組トップが、(中略)「反社」と呼ばれることをすごく嫌がったという話がある。裏社会を仕切っている点で、あくまでも社会の一員として貢献しているわけである。しかも、そういう集団は表の社会に対抗しようとして、社会の悪いところだけを煮詰めたような、もう一つの社会を作ってしまう。
(中略)
 表と裏のどちらの社会からも安心、尊敬、信頼されない人々、本当の意味で反社会的なひとに興味があるわけだ。そういう社会から逸脱してしまう人々を社会に連れ戻して適応させる試みにはなんの興味もない。とはいえ、それは別に限られた人の話というわけではない。誰しもそれなりに社会に反発する部分を抱えているが、うまく誤魔化しながら、日々の生活を送っている。そう思っているのだが、どうだろう?

 


著者は「資本主義社会から安心、尊敬、信頼される人間になる耐えがたさ」を「わかってもらおうと思ってない」と述べつつ、「誰しもそれなりに社会に反発する部分を抱えているが、うまく誤魔化しながら、日々の生活を送っている」と仮定しているが、私の目線からすると、いやむしろ皆こぞって「資本主義社会から安心、尊敬、信頼される人間」になりたがってるよなあ、と思う。今、状況的に福祉を利用する場面が多いので、とりわけそう感じてしまう。とにかくゴールテープが「社会から安心、尊敬、信頼される人間」に設定されていて、そこへ向かって歩かされてしまうのだ。私は快復はしたいけど、「社会から安心、尊敬、信頼される人間」にはなりたくない逆張り太郎なので、福祉を利用するとしばしば致命的なズレが発生する瞬間がある。これが辛い。作者が言う通り、そういう風に生きることこそが幸福への最短ルートだからこそ、皆親切丁寧にレールを敷いてくれるのだろう。それがより耐えがたい。
これ以上思考を進めるとそろそろオープンインターネットで話せる領域を逸脱する気配が濃いので、ここで唐突にこの話は終わる。一体いつになったら夏は終わるのか。一体いつになったらちいかわの島編は結末を迎えるのか。島二郎は一体何なのか。分からない。半年後ぐらいにセイレーンのぬいぐるみと島二郎グッズが出るのは分かる。

*1:ここは色んな解釈があるっぽいけどとりあえず自分は「学校なんかより謎の屋敷とアオサギの方がよほど気になるので行かなくて済む口実を自演した」という風にとらえた